老犬とおばさん 明日の生活を楽しむ

穏やかに静かに過ごしていきたい理想、そうもいかない現実。 お付き合い しがらみ 煩わしいこと 少しずつ手放して 快適な生活を。

叔母の生涯

叔母が逝ってしまった。
私にとって叔母は、祖母ような存在であった。


通夜は寺で行われた。
無機質な空気が漂う。
涙ぐんだり,沈痛な面持ちの人も見うけられず、心より死を悼むという雰囲気が感じられない。
かといって、98歳までよく生きた、気持ち良く送りだそうという雰囲気もない。
読経 焼香 説話と淡々と進んでいく。


叔母の孫にあたる40歳くらいの男性が
私の前に座っていたが、
紺のスーツで喪服ではないのに
違和感をおぼえた。
98歳という高齢では 叔母の直接の知り合いや友達もほとんどいないようだ。
叔母側の親族の参列者は、
叔母の兄弟も亡くなっていて、
一人生存されている妹も病気で
来られず、彼女と関わりがほとんどない甥や姪が数人であった。
長期間、ホームに入っていて 高齢でなくなった方の通夜に何度か伺ったことがあるが、
こんな淡々とした空気感は初めて味わう。


彼女は、若くして後妻となる。
相手が人格者であり 安定した職につき 経済的に裕福であるということで
持ち込まれた縁談であった。 
相手は 先妻と死別し 小学生の男の子がいた。
彼女は、男の子を自分が産んだ子のように愛情を持って育てようとした。
しかし
父親を新しい母と名乗る彼女にとられたと思っていたのか、
実の母親のことを忘れられないのに 結婚する父親が許せなかったのだろうか。
父親と子供の間には確執があり、
子どもは、彼女に心を許す事はなかったようだ。
それでも彼女は、献身的に子供と夫に尽くした。
そして先妻と子供に気を遣い 自分の子供を持とうとはしなかった。


その子供が成長し、子供の結婚を機に住んでいた家を子供に譲り、
ご主人と二人で地方に家を建て暮らす。


夫婦で家庭菜園をしたり、多くの椎茸の原木の世話をし、 
収穫した椎茸を食膳に並べ 食するのを楽しみにしていた。
その一時期 私はわけあって彼女の家に預けられた。
夫婦は穏やかで一度も声を荒げたり 人の悪口をいったりする様子を見たことがない。
特にどこかに出かけたり、これといったことはなかったが、
日々の穏やかな生活は、自分にとって安心できる居心地のいいものであった。


結婚生活で夫婦2人で過ごしたこの時期が彼女にとって
一番穏やかで幸せな日々だったかもしれない。
しかし、しばらくして、ご主人が病気になり、
心細くなったご主人は 子供と暮らす選択をし 彼女も共に元住んでいた家に戻る。
子供夫婦、家族とのぎくしゃくとした関係は変わらなかったが、
ご主人が 見えない壁となり いつも彼女を守っていた。
彼女は やさしさくつつましく、愚痴を言わず、
けっして前にでる女性ではなかったが 
芯の強い我慢強い女性であった。


子ども家族と数年過ごし、ご主人が86歳で亡くなった。
すると 壁を崩すように子供夫婦は次第に彼女より優位にたち、
彼女は 居候のような立場になった。
彼女はその時、80歳直前だった。
私が彼女へ電話をかけるといつも家族がでて、
その取り次ぎは億劫がられ、次第に彼女自身も家の電話を使用できなくなり、
電話をしたい時は外の公衆電話を使った。
私は その家族には内緒で彼女に携帯電話をプレゼントした。


家族から直接罵声を浴びせられたり、
意地悪をされたりということはなかったが、 
彼女は、いつもいないものとして 扱われていた。
無関心の沈黙の虐待。


それでも彼女は、その中で自分のできることをし 楽しみを見つけて生活した。
彼女の楽しみは、いらなくなった洋服や着物で袋や人形を作り 
それを近所や知り合いにあげることだ。
そして親戚で集まる場で兄弟や姪、甥にこづかいとともに作ったものをあげ、
相手が喜ぶことを楽しみにしていた。
私は、彼女を誘い、旅行へも何度か出かけた。
親戚の中で、彼女との交流は一番多かったかもしれない。
彼女は ご主人から 譲り受けた株や貯金、保険金がかなりあったが 
それには、ほとんど手をつけず、倹約し、生活は質素であった。
しかし 彼女と会うと  断っても 必ずお小遣いをくれた。
親戚で困った人がいると援助もしていた。
また 子供家族には毎月 多額の生活費を渡していた。


90歳になったある日 
突然 子供から「明日から ホームに行くからね。」と言われた。
ホームとは老人ホーム、介護施設のことだ。
彼女に選択する余地はなく、 翌日より彼女は ホームで生活することになった。
彼女の知らない所で 介護施設の申し込みがされていて その空きがでたらしい。
彼女は ホームに自分の財産、通帳や株券等を袋にまとめ持って行き 
隠しておいたが、家族がみつけ、
ここに置いておくと危ないからとすべて持っていった。
それっきり 彼女はそれらを見ることも 使うこともなかった。
入所前、彼女は、週2回 送迎車でデイケアサービスに行き 
他の日は家で過ごすことが多かった。
早くは歩けないが 手すりにつかまりながら一人で歩き、
トイレやふろにも自分で入ることができた。


そして私は、彼女のホームへの入所後、すぐ会いに行った。
ホームは 街外れにあり 山の中の静かな場所にあったが
交通の便が悪いので そこは 車でないといけない場所。
よくいえば落ち着いた、悪く言えば 社会と隔離された所だ。
彼女の部屋は2階にあり大きな窓のある明るい部屋で6台のベッドが置かれていた。
病院の大部屋の雰囲気だ。
面会時、彼女は 部屋にはおらず、リビングルームにいるというので 
そこに行くと車いすの彼女がいた。
なぜ 車いす?
ホームでは 怪我や事故になることを防ぐために、
歩行が不安定な者は車いすの生活になるようだ。
もちろん風呂も 介護士がていねいに入れてくれる。
すべてが手とり足とりで 入所前出来たことも次第にできなくなっていった。
リビングルームは食堂も兼ねていて まだ食事が終わらない人が 奇声をあげていた。
介護士が 食べさせようとしているが 手足をバタバタと動かし、
叫んでいるのでなかなか食事が進まない。
いろいろな老人がいる。
そして 介護士さんが リビングルームのいろいろな所に立っていて 
人々を観察している。
安全のためだろうが、その監視的な視線が妙に気になる。


また 外出も家族の許可がないと出来ず、今までの自由は奪われた。
携帯電話も使えなかった。
しかし 折り紙をおったり、みんなで歌を歌ったり、
季節の行事の集会などのレクレーションがあったりした。
しかし 彼女は家に帰りたがっていた。
でも 家族には口に出していうことはなかった。
彼女は、話をしていて笑いはするものの
ふと見せる表情は  寂しげであった。



ホームに入り、数年経過したころ、
彼女は、風邪がこじれ肺炎になり 病院に移され入院した。
病院に見舞いに行くとベッドに寝ていた彼女は、私の顔を見て微笑んでくれた。
そして1週間後 退院となった。
彼女は しばらく自宅に帰れると思っていたようだが、病院からそのまま 
またホームにもどった。
家族は ほとんど面会に行かないようだ。
私もホームが遠く 頻繁に会いに行けないので 写真を添え  近況や他愛のない手紙を書いたり  時折 季節の花を送ったりした。
ホームのスタッフさんへのお菓子等も一緒に送った。
しかし 日が経つに連れ
彼女は だんだんボケてきて 物の名前や人の名前がわからなくなった。
しかし 私の名前は しっかりと覚えていてくれた。


ある日 彼女の子供側の親族と名乗る人から自宅に電話が入る。
彼女に送った花の配達伝票から 私の電話番号を知り、電話をかけてきたようだ。
お礼の電話だと思ったが、それだけではなかった。
彼女との関係を詳しく聞かれた。
私は、彼女の子どもやその親戚との関わりは、ほとんどない。
それで 遠まわしに関わらないでほしいという話だった。
彼女の財産を狙っていると思われたようだ。
後味の悪い電話だった。
それ以後 彼女と直接関わることがなくなり 遠くで見守るしかなかった。
できれば 彼女を私の家のそばのもう少し快適なホームに入所させ 
いつでも彼女に会いに行きたかった。
せめて正月や盆には家で過ごさせてあげたかった。
でも私と彼女は血縁関係があっても家族ではないので 深入りはできなかった。



彼女の家族は 誰一人として彼女と血縁関係のあるものがいない。
だから 彼女は 自分の処遇を
しかたのないことと諦めていた。
決して 恨んだり 後悔の言葉を聞くことはなかった。
人それぞれの 思いは様々だし わからない事情もあると思うので、
子供夫婦や家族を責める気持ちはない。
それに自分の身内は、どうも贔屓目にみてしまう。
だから 叔母と子どもは、お互い悪気もなく 
ただボタンをかけ間違えたまま時が過ぎていったのだと思う。
しかし 彼女は、こんな老後になるとは思ってもいなかっただろう。


彼女は、自分の財産がたくさんあったのだから、
自分の好きなことをし、
自分で動ける時に動いて 
自分が快適に過ごせる老後や施設をさがすべきだったのかもしれない。
私も助言してあげた方が良かったのかもしれない。
今はそう思うが 当時の私は若くて未熟で、そこまで考えることができなかった。
また外から なんと言われようが、どう思われようが 図々しく彼女と関わればよかった。


私の母と彼女とは、20歳近く離れていて、
祖母の死後、母にとって彼女が母親がわりで拠り所となっていた。
その私の母が早く亡くなってしまったので、
私が彼女のことを気遣ってあげなければいけなかった。


結婚して夫と子供に尽くし、自分の子供をあきらめ、
その後は子供の家族に気を遣い、贅沢もせず、
逆らいもせず、最期は、ホームで静かに亡くなった彼女。
いさかいを起こさず 自分を押さえることが 子供や家族への愛情だったのかもしれない。


彼女の生きてきた道を考えると 読経中 涙があふれてきてとまらなくなった。
何もできなかった自分も情けなかった。
そして無機質な通夜の雰囲気がより涙を誘った。
一人だけ泣いていた。


通夜の後、棺の中の彼女の顔を見た。
やすらかな顔だった。
いろいろあったけれど
幸せだったのだ そう思いたい。
「ありがとうございました。
さようなら。」
と最期のあいさつをし 寺を後にした。



明日は 穏やかな日になりますように✨

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